初代 京極高通
京極家9代目京極高通が32歳の時、10月15日に京極事務所を創業。
岩崎男爵および有限会社東京倉庫(現・三菱倉庫㈱)などの諸幹部から絶大な信頼を受けていた京極高通が組頭となり、「小野組」から倉庫の荷役作業を行う人夫供給業の営業権の譲渡を受け、日本橋蛎殻町に京極事務所を創設、「雑貨方の人足用達」となった。
創業当時、京極事務所には従業員が約100名おり、東京倉庫や郵船会社(現・日本郵船㈱)、三菱合資会社(現・三菱マテリアル㈱)の作業現場に事務所を設け順調に事業を拡大していった。
二代目 京極小一郎
京極高道の死去により、京極小一郎が二代目として事業を継承するが、当時大流行したスペイン風邪にかかり急逝、高道の妻カネが急遽三代目として事業を継承した。しかし、早急に後継者が必要であったため、小一郎の親友であった「桶谷友助」が京極家と養子縁組を結び、「京極友助」として事業を継承し四代目となった。
友助は当時の世相を考慮し、帳簿を大福帳式から簿記式に、職員の服装を和服から洋服に改め、利益の一定部分を盆暮れに分配する制度を作り出した。また、社則と退職金制度を制定するなど時代の先取りを次々と実行していった。
米国製トラック「レパブリック」
大正9年には米国製トラック「レパブリック」1両を、運送業界の先駆として導入。当時民間のトラック所有は大和運輸㈱と京極事務所くらいで非常に珍しく、運送業界では花形的存在であった。
大正12年の関東大震災では、本店の焼失や各事業所の罹災など相当な被害を受けたが、事業は停止することなく運営された。
「ニッサン」タンクローリー
昭和11年、三菱石油㈱の製油事業発展に伴い、京極事務所の業績は順調に伸展した。加えて三菱商事㈱燃料部を通じて輸送量が増加し、その対応として日本で製造した最初の国産貨物自動車「ニッサン」の荷台部分に、タンクを架設したタンクローリーを導入した。
落成当日に撮影した本店社屋と社員
関東大震災により焼失した蛎殻町の「京極本店」から、京橋・越前堀(現・中央区新川)に「本店社屋」を新築し移転した。
昭和20年3月、アメリカ軍のB29による「東京大空襲」で、越前堀の「本店社屋」は跡形もなく焼失、また、各地の営業所も滅失するなど、大きな被害を受けた。
同年個人経営の組織を継続しつつ、「京極事務所」から「京極社」へ商号変更を行った。
株式会社京極社の社屋
昭和22年4月、日本橋本町の仮事務所から新築した中央区越前堀の新事務所へ移転し、同年5月12日には、時代の流れに合わせ会社組織に改組し、「京極社」から「株式会社京極社」と商号を変更した。
その後は輸送部門の他、ドラム缶容器部門(当時は再生ドラム缶の洗浄を自社で行っていた)、港湾運送事業部門など、現在の経営形態に近い状態が形成されていった。昭和27年には「税関貨物取扱人(通関業者)」の免許を、また、昭和36年には「一般区域貨物自動車運送事業経営」の免許を取得した。
京極ビル(現・中央区新川)
昭和39年4月、中央区越前堀に京極ビルが完成した。昭和39年頃の輸送部門は三菱石油㈱の専属輸送業者であり、三菱石油製品の大口需要家であったことから、昭和39年8月に三菱石油㈱販売特約店となった。当社は石油部(現・京極石油㈱)を開設して対応した。従来から行っているドラム缶容器事業など、商事部門も重要な事業となっていたため、社名を「株式会社京極社」から「京極運輸商事株式会社」に商号変更した。。
昭和41年9月13日、東京証券取引所に「株式店頭売買登録銘柄」として登録され公開された。公開当時は1株67~72円であった。
四代目 京極友助
昭和51年10月、創業85周年記念式において、德岡達司の五代目社長就任及び京極友助の会長就任が披露された。翌昭和52年、京極友助はそれまでの功績を称え、春の叙勲に際し「勲4等旭日小綬章」を授与された。(昭和36年には藍綬褒章、昭和40年には勲4等瑞宝章を授与されている)
百周年記念祝賀会の記念写真
京極運輸商事株式会社は、京極高通による創業から1世紀という節目を迎え、祝賀会が開催された。
本社事務所が中央区新川から中央区日本橋浜町(現在地)へ移転した。
京極運輸商事株式会社は創業130周年を迎えた。折しも新型コロナウイルスが蔓延していたため、安全を第一に考え、残念ながら式典は開催されなかったが、社員及び社友に記念品が贈られた。
京極のこれから
京極高通による創業から130年を超えて、京極運輸商事株式会社はこれからも更なる価値向上を目指し新たな一歩を踏み出しつつ、 創業から変わらぬ「信用第一」を社是に今後も邁進してまいります。
初代高通元締
京極という姓が多くないため、当社の社名についてご質問を受ける機会は少なくありません。 以下では京極家のいわれと当社とのかかわりについて掲載しております。
佐々木氏は近江の守護家であった。源成瀬が近江国蒲生群(滋賀県)佐々木荘に住んでおり、のちに、源経方に至り、佐々木氏を称することになった。なお溯って平安朝期は地方豪族として、下司系と神主系に分かれていたようである。 佐々木秀義のとき、源為義の女婿となり、平治の乱(1159年)では源義朝に従ったことから源氏との関係をもつようになった。これが宇多源氏または近江源氏とよばれる所以である。 佐々木秀義は平氏に追われ相模国渋谷荘にいたとき、源頼朝の挙兵に従い、石橋山(小田原市)で木曽義仲追討などで功をあげた。 文治元年(1185年)長男佐々木定綱は近江石見の守護職に、次男経高は淡路・阿波・土佐の守護職に、三男盛綱は伊予・越後の守護職に、四男高綱は備前・長門の守護職に、五男義清は出雲・隠岐の守護職に任ぜられるなど諸国で勢力を張った。 近江石身の守護職佐々木定綱の嫡子信綱は、佐々木・豊浦・和邇・堅田等の地頭職を得て評定衆になった。
佐々木信綱の代に至り、その子長男重綱、次男高信、三男泰綱、四男氏信は佐々木氏の分流となり、大原重綱、朽木高信、六角泰綱、京極氏信と名乗りそれぞれ家姓を起こした。 氏信(1220~1295年)は、その屋敷が京都の高辻にあったことによって、佐々木京極氏を称したと言われている。 子孫は、近江のほか出雲・隠岐等を領し、また室町幕府四職(室町時代「侍所」の所司(長官)に任ぜられた山名・一色・佐々木京極・赤松の四氏)の一つでもあった。
戦国時代、京極高次(1563~1609年)が世に知られているが、その弟京極高知(1572~1622年)は徳川の代に丹後の国を領しのち三子に領地を頒った。その長男京極高広は丹後を居城としたが、その子高国の代に、お家騒動があって京極家は取潰しとなった。しかし、のちにその子たちは、あるいは高家として、あるいは旗本として再取立てとなり、京極の家姓が残された。 京極高国の四男京極高林(1663年~1725年)は旗本となり、房州鴨川(千葉県)に知行所を与えられた。元禄の初年(1688年)である。これが京極家(家姓復活後)の初代として過去帳に載っており、京極事務所の創立者京極高通(1859~1916年)は、その9代目にあたるのである。
【参考】 (1)京極運輸商亊80年 (四代目社長、京極友助著) (2)京極百年史